2009年05月20日
晴耕雨読。
私達の仕事は、今、暇で困っています。
今日も、業者の方から、暇だから、営業につれていって・・・・・
という電話がありました。
私は、”晴耕雨読。な生活”を送っています。
雨の日は、本を読んだり、簿記の勉強をしたり、音楽・映画・ドラマをみたり、それなりに忙しいのです。
そして、晴れた日は、畑を耕し家計の足しにしています。・・・・・・・・
まだ野菜を売ったことは、ないのですが、野菜は、作っています。
今日は、晴れなので、畑を耕していました。
いつものことなのですが、畑をたがやしていると、必ずヒヨドリが畑に舞い降ります。

そして、耕した土の間から、小さな虫をさがしだし、どこかへ飛び立っては、また戻ってきます。

実に働きもの、見習いたいと思います。
今日も、業者の方から、暇だから、営業につれていって・・・・・
という電話がありました。
私は、”晴耕雨読。な生活”を送っています。
雨の日は、本を読んだり、簿記の勉強をしたり、音楽・映画・ドラマをみたり、それなりに忙しいのです。
そして、晴れた日は、畑を耕し家計の足しにしています。・・・・・・・・
まだ野菜を売ったことは、ないのですが、野菜は、作っています。
今日は、晴れなので、畑を耕していました。
いつものことなのですが、畑をたがやしていると、必ずヒヨドリが畑に舞い降ります。

そして、耕した土の間から、小さな虫をさがしだし、どこかへ飛び立っては、また戻ってきます。

実に働きもの、見習いたいと思います。

2009年05月10日
昨日の竹中直人さんの弔辞感動しました。

竹中直人さんの弔辞。
感動しました。
安易な記事ですが、掲載します。
■竹中直人さんの弔辞
清志郎さんへ。清志郎さん、ぼくは今日、清志郎さんにいってっしゃい、今まで本当にありがとうございました、ただそれだけを言うつもりでいたのに、弔辞お願いしますって言われちゃって、ものすごいプレッシャーで。
清志郎さんにもらった指輪をしてきました。昨日の朝はものすごい雨と雷でした。急に外に出たくなり、大音量で清志郎さんの歌を流しながら、車を走らせました。ボス、キング、ゴッド。いろんな呼び方が清志郎さんにはあったけど、僕にとってはやっぱり清志郎さんです。
なんでかまだ、ボーッとしています。身体も心もまだふるえています。お通夜の日、清志郎さんの寝顔をみたけど、別人じゃないかって思ってしまいました。でもとってもきれいな顔でした。とってもきれいな手でした。でもね、清志郎さん、僕たちはまだ信じられない思いでいっぱいです。忌野清志郎が死んじまった。何度も言葉でつぶやいても心の中で思っても、受け入れることはできません。絶対に受け入れることなんてできない。でも本当なんですよね、清志郎さん。大好きな清志郎さん。みんなみんな清志郎さんのことが大好きです。清志郎さんのことが嫌いな人なんて、誰1人としていない。
清志郎さんがガンを克服したとき、「竹中、おれ、がんじゃなかったかもしれないな。今さらそんなこと言えないんだけどな」っていった。
僕が中学3年のときに深夜のラジオから独特の歌が流れてきて、なんて独特の声の持ち主なんだ。それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。それからずっと、清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、ぼくのそばにいました。そして僕が大学生のとき、紹介で本物の清志郎さんに出会い、僕たちの作っていた8ミリ映画に出演してくれることになった。でも、撮影途中、カメラが倒れて壊れてしまって、清志郎さんの出演シーンはなくなってしまいました。
それからライブで、清志郎さんに会うたび、「竹中、あの8ミリ映画どうした」って言ってくれたことを思いだします。その言葉は僕の心の中にずっと残っていて、いつか清志郎さんと映画を作る夢を膨らませてくれました。そしてその夢がかない、ぼくが監督した映画の音楽監督をやってくれて、日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を取ったんですよね。それから清志郎さんが、ぼくが映画を撮るたびに「竹中、映画を撮っているそうじゃないか、出番はないか」って必ず駆けつけてくれました。僕がテレビに出るときも、「竹中、出番はないか」って必ず駆けつけてくれました。
ぼくが50歳になったときも「竹中、おめでとう」って駆けつけてくれました。僕がどんなに落ち込んでても「竹中」っていつも声をかけてくれました。清志郎さんの30周年の時も、35周年の時も、「竹中、出番があるぞ」って声をかけてくれました。清志郎さんが5夜連続のラジオをやるときも「竹中、1人では間が持たないから来てくれないか」って呼んでくれました。
ぼくが映画を作ったときも「竹中、お客さん入っているそうじゃないか」って一緒に映画館に行ってくれて、お客さん入っているの見ながら、「竹中、やったな」って、何度も何度も言ってくれました。
僕はみんなに自慢したいです。僕は忌野清志郎と友だちだったんだぜって。世界中の人に自慢したいです。ずっとずっと自慢してていいですよね、清志郎さん。
僕は清志郎さんに何もしていない。いつも自分のことばかりで。清志郎さんの髪が抗ガン剤で抜け落ちて、また生えてきたとき、清志郎さんはぼくに言ってくれましたよね。「竹中には絶対勧められないんだけど、抗ガン剤って、髪が全部抜けちゃうんだけど、そのあとに生えてくる髪が、剛毛なんだぜって」。でもぼくは清志郎さんに「頑張ってください」って、ありきたりの言葉しか言えなかった。
清志郎さん。清志郎さんの残してくれた言葉、声、歌は、ずっとずっとぼくの中に生きています。忌野清志郎は死んでない。ずっとずっと僕たちの中に生きています。ものすごく、ものすごく寂しいけど、僕たちはそう確信しています。
清志郎さん。僕の母は僕が高校3年生の時に亡くなりました。母の死は、そのころの僕にとっては深い悲しみでした。
3年前、母の三十三回忌の時、母のお墓のあるお寺の住職さんがこんなことをぼくに伝えてくれました。「直人君のお母さんは33年間、ずっと直人くんのそばにいて、直人君を見守っていたんだよ。33年たって、お母さんはやっと直人君を離れて、月に帰っていったんだ」。
だから、清志郎さんはこれから33年間、ずっと僕たちのそばにいてくれるんだと思いました。そして、月に帰っていくんですよね。だから清志郎さん、これから33年間、僕たちを見守っていてくださいね。
見てほしくないときは、「しょうがないなあ」って見て見ぬふりをしてください。でもここだって言うときは、僕たちに、岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。
清志郎さん、ボス、キング、ゴッド! ずっとずっと、僕たちは清志郎さんが大好きです。ずっと、ずっと…。ずっと! 清志郎さぁーん! またね!(と遺影に向かって左手を振り回す)